ハイエク:その思想の根本に触れる論文に出会いました

フリードリヒ・ハイエクの社会思想の根本部分を知るのに、これ以上ないテキストに出会いました。

『自然・人類・文明』というNHKブックスの書物。1978年に行われた、ハイエクと生物学者今西錦司との対談ですが、その巻末に掲げられたハイエクによる補論『人間的価値の三つの起源』こそ重要なんです。

それは1978年5月、ロンドンで行われた講演の記録。特に重要なのは、ハイエク本来の社会哲学的な領域に触れる後半部分です。

ここでのハイエクの結論を簡単に言うと、「人類社会がここまで発展してきたのは、人々がそれぞれの社会に存在する伝統に従いつつ、それぞれ手探りで『良きこと』を追い求めてきた結果であって、そこに全体を統合する大きな原則や、あるべき法則などは存在していなかったし、今後もない。」ということなのです。

なんとも単純な。

しかしシンプルであればこそ、そのメッセージは強烈です。

それぞれの社会の構成員の行動を制限し導くものは、長い年月によって自然に積み重ねられてきた「規範」そして「伝統」しかないのだと。それらは、どのように発生し、どのように選択され、どのように広まってきたのか、誰も分からず、説明もできないものが多い。「私たちは私たちの経済制度を設計したことなどありません。たまたまその制度が転がり込んできたに過ぎないのです」。しかし、それこそが、人類の浅知恵をはるかに超えて、多くの世代の取捨選択を経て生き残ってきたものの意味と価値なのだと主張します。

このメッセージが批判しているのは、いわゆる「社会主義」であるのは明らかですね。

社会主義者たちは、自由な市場経済というものを理解できません。それは、なにかとても邪悪な力に支配された、不合理かつ不平等なものとしか考えられないのです。

社会の「平等」を目指し、ある特定の「知性」が、富の配分から調整まで行う、それが社会主義思想。その根本にある「人間は意識的に社会秩序を構築できる」という考え方を、ハイエクは一刀両断にします。「人類は行動規範を自ら作り出せるほど賢くない」という冷徹な認識。古来の「知性主義」や「合理主義」へのアンチテーゼ。

つまり、人類はアホなんだということでありますね。

社会主義は、「人がそれぞれ自分勝手に『良きこと』を求めるなど許せない。それは「利己主義」そのもの。そうでなく、他人を思いやる心、『利他主義』こそ大切。それは、それぞれの個人とっては辛いことかもしれないけれど、社会全体のためには必要」と言います。

この「利他主義」という考え方は、誰にとっても反論しにくい普遍的原則のように響くので厄介です。

ただ、ハイエクは、「皆が皆のことを思いやりながら譲り合って生きていくのは美しい。しかし、そんな考え方が成り立つのは、せいぜい村社会まで、その構成員が全員のことをお互いに良く知っている小集団のような場合に限られるだろう」と喝破します。「自分の所属する狭い集団を超えて、他の集団とも接触し、取引も行い、問題も解決していかなければならない、現代におけるより大きな社会においては、『利他主義』ではワークしない」と。

そして、その「利他主義」を実現するために、人類が自分で法則を作り出し、それに全員が従うことを強制されるような社会。そして人類はそんな社会を合理的に生み出す「知性」があるのだという考え方。ハイエクは、それこそ愚の骨頂であり、危険であると言っているのです。

ハイエクのこの考え方は、単なるレッセフェール、つまり「自由放任主義」とは似て非なるものです。

人類にとって、ある種の行動規範は必要不可欠。しかしそれは、完全に自由に発芽・発展させていくべきもので、それを社会主義のように、政府や中央組織が生み出し、管理し、従わせるという形では断じてあり得ない。最も譲れないものは、「自由」そのものなのだと。

隷従への道」などに代表されるハイエクの思想の根本たる「自由への希求」。その基本原理を、ハイエクはこの論文で、とても分かりやすく私たちに教えてくれるのです。

このハイエクの思想の正しさは、ソ連中共、その他の社会主義諸国の害悪と崩壊とを見れば、明らかなはず。しかし、ここへ来てまたアメリカから我が国、さらに世界中に復活しつつある社会主義思想の気配。今世界は、ふたたび極めて危険な曲面に、舞い戻ってしまっているのです。

そんな今こそ、「なぜ社会主義は危険なのか」と改めて根本から問い直す意味からも、ハイエクのこの論文を、機会があればぜひ、多くの方々に目を通していただければと思います。

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