『市場・知識・自由』は1986年、ミネルヴァ書房により発刊されたF.A.ハイエクの論文選集です。
八つの論文からなりますが、その趣旨を最も明確に示したのが第1章「真の個人主義と偽の個人主義」でしょう。これは1945年、ダブリンにて行われたハイエクの講演記録です。
「偽(ニセ)の個人主義」とは、個人主義の体裁を取りながら、実は個人の自由を制限し、政府権力による支配を通じ全体主義に連なる、社会主義そのものの考え方であるとハイエクは警告します。
その主な論点は下記のとおりです:
- 「偽の個人主義」の源流はデカルト流の合理主義。この後継者がルソー。
- それは、「人間が成し遂げるものすべては個人の理性の結果によるもの」と人間の「理性」を大いに買いかぶっている。つまり、あらゆるものは人間が生み出す創造物なのだと信ずる傾向にある
- あらゆる社会活動が一貫した単一の計画に従うことをのぞみ、計画して作られる組織を愛する
- 合理的に示されない道徳的規制(伝統や規範など)を煙たがる。理性にとって完全には理解できないものや自然発生的で統制されていない組織などを軽蔑する
- 社会は、人間理性によって統制される時だけ役立つという結論に至りやすい
- これはつねに、個人主義の反対物すなわち社会主義や集団主義へと繋がる傾向がある
- そこでは、ある個人が関心を持つ特定の事がらに対し、その彼自身が指導者として導くことが前提となる
- デカルト(方法序説)「多くの棟梁の手で色々寄せ集められて作られた仕事には、ただひとりで苦労したものに見られるほどの出来栄えは滅多にない」
- アクトン卿「単一の決まった目的が国家の至上目標とされるときは、国家は絶対的となることを避けられない」
これに対し、「真の個人主義」とは:
- 人間が理性によって導かれるのはその部分だけであり、個人の理性はきわめて不完全である
- 人間は合理的で聡明な存在ではなく、非合理的であり誤りに陥りやすい存在である
- 人間は生まれつき怠惰であり、浅はかで浪費癖もある
- しかし人間は、自由な状態にあると、予見しうる以上の素晴らしいことをしばしば成し遂げる
- すべての人間の意志はできるだけ拘束されないことが重要
- 善くもあれば悪くもあり、分別のあることもあるが愚かであることも多い人間を、そういう多様で複雑な姿のままで、役立たせる社会体制が必要
- 社会が個人よりも偉大であるのは、社会が自由である限りにおいてだけである
- 個人主義的社会がうまく機能するために重要なのが、「伝統と習慣」である
- 誰が設計したものでもなく、誰にも理由がわからない社会過程の産物に従おうとすることが大切
- 伝統と慣習が人間の行動を予測可能にしている社会においてだけ、強制を最小限にできる
- 人間が最も悪い時に害悪をなす機会をできるだけ少なくするという発想で足りる
- ひとりの人間の知識と関心には構造的な限界がある。ひとりの人間は社会のある特定部分以上のことを知り得ない
- どのような人間も、他人の地位がどうあるべきかを決定する権力を持ってはならない
- 真の個人主義は無政府主義ではない。強制的な権力を否定するものではなく、むしろ強制的権力を制限することを欲する。つまり政府の機能と権力の制限に関心を持っている
- 個人主義は人間の利己主義を肯定するという理由で、多くの人々が個人主義を嫌っている
- 個人主義が、人々の正義感や嫉妬心を満足させることの犠牲にされてはならない
- 人々を平等に取り扱うということと、人々を平等たらしめようとすることとの間には天地ほどの違いがある
- トクヴィル「民主主義は平等を自由の中に求めるのに対して、社会主義は平等を拘束と隷属の中に求める。フランス革命を自由にとってかくも悲惨ならしめた最も深い原因は、その平等論であった」
以上です。
コメントを残す